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文芸時評2 文学の額縁(石川義正)

――弊誌では批評家の石川義正さんに半年間の文芸時評をお願いしています。「子午線」vol.2に文芸誌九、一〇月号を対象とした時評「銀河鉄道の労働者」を掲載しました。以下は第二回、昨年の文芸誌一一月号、一二月号に対する時評です。しばらくは三号の刊行予定ありませんのでblogで公開します。(編集部)


文芸時評2 文学の額縁
石川義正

 前回の時評で、文芸誌の二〇一三年九月号は「夏の風物詩」特集のようなもので、続く一〇月号は「芸術の秋」特集のようなものだと書いた。そのながれで喩えるなら、各誌の新人賞が発表される一一月号と一二月号はさながら「秋の収穫祭」のようなものである。もちろんそこで収穫されるのはたんに受賞作だけでなく、「新人作家」というキャラクターそのものでもあって、だから作品と一緒に顔写真が掲載されている。新人作家たちの容姿も含めて「収穫物」なのである。さらに厳密にいうなら、受賞作は選考委員たちとの合作でもある。かれらもまた作品を「選ぶ」ことで制作行為に参加しているからだ。たとえば「文藝賞」の桜井晴也「世界泥棒」や「新潮新人賞」の上田岳弘「太陽」が宇宙規模にハッタリじみた表題と内容をもつ傾向があるのは、編集部と選者が加担した創作行為である。作者の顔写真や選考委員の「選評」もまた作品の一部――作品の額縁のようなもの――として読むべきであり、たとえかれらが作品の瑕疵や美点について小説家の先輩として――というかそういう役割で――あれこれと縷々書き綴っていたとしても、それらは――「文學界」の「新人小説月評」のあまりあてにならない時評と同じく――けっして批評ではない。だから角田光代が「文學界」で「今回は候補作五作とも、どれもみなおもしろかった。作者が、「小説とはこうしたもの」と規定しないで、あるいは自分内のその規定をこわそうとして書いている。(中略)今回は五作ともにその意欲を感じた」と書き、「文藝」で「多くの新人賞の候補作によくある「小説とはこういうもの」を、軽々と超えている」と書いているのも、批評の言葉として読んではならない。むしろ新製品が発売されるたびにメディアにまき散らされるコピーのようなものだ。新製品はつねに「画期的」で時代を「進化」させなくてはならない。それが資本の論理というものだからである。角田によれば、すでに今回の新人賞候補作計六作はすでに既定の「小説」的なイメージを「軽々と」超えているらしいが、それは選評の額縁性の否認であると同時に、作家じしんの業界内部における社交の言語でもある。もちろん「ハッタリ」とは額縁性の否認とほどよく調和した新人作家の側からの媚態であり、文学業界という社交界へ入会するためのイカした名刺のようなものなのである。
 今回読んだ受賞作のなかで評者がもっとも好感をもったのは「文學界新人賞」の守島邦明「息子の逸楽」だった。「文學界」は業界の老舗であり、芥川賞を主催する文藝春秋社の純文学誌であるから、なにしろ「純文学」の王道というか、ハッタリ感が比較的に少ないような気がする。王道というのは「すばる文学賞」受賞作の奥田亜希子「左目に映る星」金城孝祐「教授と少女と錬金術師」という、いかにも「すばる」っぽくイタいタイトルの受賞作と比較してもそうだし、同時受賞した前田隆壱「アフリカ鯰」の、地球を半周した程度でとどまっているあたりが微妙に地に足のついたハッタリ感を醸し出しているのもそうである。ただし「アフリカ鯰」の作者近影から漂うマッチョな――選評にはヘミングウェイという名前も挙がっている――印象よりも、「息子の逸楽」という耽美主義を予感させるタイトルと二一歳という作者の若き日の谷崎潤一郎とか南伸坊を連想させる風貌に、どちらかというと親近感を覚えるのである。
 日本でネットゲームのベンチャー企業を立ち上げて一儲けした二人組が、仕事を捨ててアフリカに移住しようと試み騙される「アフリカ鯰」も、「全身性の血管炎」という難病の母親を介護し、大学を卒業しても働きもしない「息子の逸楽」も、前回の時評で触れた「労働の不在」にきわめて忠実である。その意味では純文学の今日における傾向に両作とも敏感であるといってよい。興味深いのは「息子の逸楽」の話者が「就職難に苦しむ同期の学生から、生家が金持ちだと仕事探しに熱心でなくていい、とあからさまに毒づかれ」ながらも、「僕は誰でもない。誰かになんてなってたまるか」という無言の抗いというか、開き直りの意志を示している点である。「アフリカ鯰」で男たちがアフリカに旅立つのも同様で、それらは現在の過酷な資本主義社会からの逃避であり撤退であるが、蓋しそこにしか文学の根拠はないのだ、とかれらは言い合わせたかのように主張したいようなのだ。もちろんそうした撤退を可能にするのが、やはり資本であるという矛盾からは逃れようがなく、それ故にかれらの企ては当然のようにことごとく敗北する。その敗北の過程そのものが作品の読みどころになっているのも同じである。「アフリカ鯰」であれば、アフリカ大陸は日本に輪をかけて過酷な資本が跳梁跋扈する社会であることが最後に明かされるのだし、「息子の逸楽」であれば話者の視覚的な幻覚として表現される。
 
彼は洗面所の鏡のまえで立ち止まった。眼鏡をかけている自分はいよいよ自分らしくなく、目鼻立ちはよりくっきりとし、細かった身体にも少し膨らみがあった。彼は目をしばたたかせ、自分の右手を少し上げ、それから下げた。鏡の中の自分が同じ振舞をしたので、安心した。彼は自らの顔を触った。頬、剃り残しのあるひげ、唇、鼻梁、額。自分のかつての手触りとの違いは判らなかったが、何か違和感があった。彼は恐る恐る眼鏡を外した。その途端、洗面所が白黒になった。鏡は一枚の紙となり、中央からとめどなくフランス語らしい文字があふれ出した。右手が肥大し、彼に眼鏡を付けさせる暇も与えず大急ぎでダイニングへ引っ張り出した。そこには、痩せこけた母が座っていた。彼の驚きをよそに、右手は腹立たしそうにクロックムッシュを作った。よく見ると、膨れ上がった五本の指先にさらに五つの分枝が付いていた。正常な手に比べてずっと作業がしやすそうだった。
 
 伊達眼鏡をかけると生じる「五つの分枝」の付いた指先とは『エイリアン』や『寄生獣』さながらだが、それが端的に労働の「疎外」を意味する幻覚なのは明瞭である。つまり小山田浩子の「穴」で幽霊が語る「アリスの兎」とまったく同じ機能を付与されているのだ。しかしこうした幻覚はあまりに観念的な操作を施されているという意味で退屈である。純文学という抵抗がその背後で敗北とはなから妥協していたのだとしたら、それは耽美主義どころか、またぞろ愛想のいい順応主義の仮面にすぎないだろう。べつにプルーストやバロウズと比較して幻想としての強度が足りないとか、無茶な要求をしているわけではない。評者は先日、たまたま森崎東の新作映画『ペコロスの母に会いにいく』を観た。老いて認知症を患う母親(赤木春恵)と息子(岩松了)の交流を描いたこのささやかな映画を、なにもこの老練な映画作家の経歴で傑出した逸品だと思っているわけではない。にもかかわらず情動をかきたてられるなにかが映画にあるとしたら、それは八九歳の赤木春恵の芋虫のように浮腫んで肥大した指がまざまざと露呈する労働の痕跡そのものである。もはや息子を息子として認知できない母親の眠る姿を、漫画家である息子が泣きながらスケッチする。岩松了の描く手としてそこにインサートされるのは、おそらく原作者じしんの手なのだと想像されるのだが、それもまた赤木春恵の手さながらに芋虫のような醜い肢体をさらしているのだ。母子の血縁という主題をフィクションという核組を超えて生々しく呈示するのは、長い労働の果てに無惨に変形した指なのだ。二人の指には労働を通じて観念が奇跡のように受肉しているのである。
 今回読んだ小説には、「息子の逸楽」も含めて関西(と思しき土地)を舞台にしたものが目についた。黒川創「深草稲荷御前町」(「新潮」一二月号)と北野道夫「京都ジャンクション」(「すばる」一二月号)が京都だし、山崎ナオコーラ「反人生」(「すばる」一二月号)では神戸の谷崎潤一郎記念館に旅行する。おそらく今日のグローバルな資本主義とは異なる、関西という土地柄に古くから根づいたブルジョアジーの懐の深さといったイメージにどこかで依拠しているにちがいない。谷崎が関東大震災から急速に復興する新東京から逃れて西に向かったように、貧乏であれ裕福であれ、貧困だのデフレだのマネーの流動性だのといった資本主義の実感をいくぶんか緩和してくれるような、どこか地に足の着いた有閑な文化がそこにまだ息づいているかのようなのである。「反人生」の五五歳のイラストレーターである「萩子」は「人生などという下卑たものは五十五年間一切織り上げてこなかったし、これからも決して制作しない」というきっぱりと反俗的な人生観の持ち主なのだ。その萩子が好きなのが谷崎潤一郎の『細雪』なのである。『細雪』といえば、それが第二次世界大戦時に時局への無言の文化的な抵抗として書き継がれたという「神話」がある。今日の研究では、谷崎の「抵抗」なるものが実際には軍部への阿りを大きく含み、しかも戦後みずからそれを糊塗していたことが明らかにされている(西野厚志氏の教示による)。しかし「反人生」の小説世界が「二〇三四年」という近未来で、それまでに二〇年のあいだに二度の戦争と一度の震災があったという設定は、萩子にささやかながら「戦時下抵抗」という谷崎の文化英雄的イメージを付与しているのだ。
 だが、彼女のように中産階級の独身者が、二〇三四年という「戦後」にも二〇一三年の東京とかわらぬイタリア料理屋で気ままなアルバイトをし、中華料理屋で「蝦の巻揚げ」を楽しむという生活を送れているということは、どうやら日本は二度の戦争――作中では触れられていないが、相手は中国だろうか? ロシアだろうか?――に勝利し、震災でも都市や原発にさして大きな被害はなかったに違いない。これはずいぶんと都合のいい世界観ではないか。少なくとも荷風や谷崎のような作家が生き延びた第二次大戦で日本は負けたはずだし、その敗北からしかかれらの「抵抗神話」は浮かび上がってこないはずだ。萩子の人生観は戦勝国の余裕に掉さしているにすぎず、つまりはフォークランド紛争に勝利したサッチャー政権下のイギリスのような、浮ついたバブル社会の喧噪の一コマに他愛なく収まってしまう程度の反俗であり、それを「反人生」とか命名するのはとんだ間の抜けたトンチキということになろう。その頓珍漢な錯覚は、もちろん「息子の逸楽」の順応主義とまったく軌を一にする。かれらの反俗はいずれも肉体を欠いているが、肉体を欠いた反俗など絵に描いた餅以下の通俗そのものである。
 反ブルジョアという意味では、いとうせいこう「鼻に挟み撃ち」(「すばる」一二月号)もまた異なる戦略においてそれを実践しているのかもしれない。三・一一以降のデモ(群衆)と笑いというバフチン的な主題である。ひとまずタイトルから読み取れるとおり、これは後藤明生とゴーゴリへの「トリビュート」であり、一つのタイトルに二人の作家から「サンプリング」しているという強引さが読みどころであり、結局それだけの作品にすぎないともいえる。これが芥川賞候補作に挙げられたのは――業界の事情にはまったく疎いのだが――『想像ラジオ』を誤って(!)落選させてしまったことへの代償なのだろうか。お茶の水の聖橋に増殖した「鼻」はこの二人の作家の「シミュラクル」であり、「黒ぶちの眼鏡が付いているじゃないですか。これじゃパーティグッズだ」という台詞から笑いが伝染し「わたしたちはこの喜劇から逃れようがない!」という一文で終結するこの短編は、一九八〇年代以降の知的流行が例によって小器用にリメイクされている(ちなみに『想像ラジオ』の樹木=電波塔という形象は八〇年代の大江健三郎からのパクリだが、それについては拙論「大江健三郎の二つの「塔」」、「早稲田文学4」所収を参照いただきたい)。この小器用な才覚がいとうせいこうの生命線であるが、後藤明生とゴーゴリというなんの驚きも意外性もない組み合わせをさもコメディであるかのように持ち出すのが小器用なゆえんである。引用が「異化」――これもかつての流行語だった――ではなく読者の納得を誘起させる点において、山崎ナオコーラの「谷崎潤一郎」や前回の時評で取り上げた古川日出男の『鉄腕アトム』や高橋源一郎の「宮沢賢治」と同断なのだ。引用元への目配せが自分じしんの作品の同一性を説得するという機能しか果たしていないから、そこには「労働」がないのである。
 「反人生」のようなブルジョア的な反俗性には、神話的な起源となるひとつの形象が存在している。『細雪』と同じく第二次大戦下にアメリカで制作された、オーソン・ウェルズの映画『市民ケーン』がそれである。そこでは甘やかされた悪童といった趣の若きウェルズじしんが演じる新聞王ケーンの所有欲と遊戯性、社会的な成功と人生の孤独とが何の矛盾もなく収まっているのだが、荒廃して客や臣下も誰もいなくなった王国の宮殿のような大邸宅がそうした諸イメージを視覚的に具体化している。群衆を情報操作するケーンの抱える高貴な孤独こそ「鼻に挟み撃ち」のごとき愚かな群衆の「喜劇」と対極に位置するはずだからだ。しかし今日のブルジョアジーが夢想しうる物質的所有の最高の象徴とは「宇宙旅行」なのではないだろうか。人類がアポロ一一号で初めて月に到達した――その当時、ベトナムでは数多くの若くて貧しいアメリカ人たちが銃を抱えて泥水の中を這いずりまわっていた――一九七〇年代以降、「建築」から「宇宙船」へと「富」の象徴は移行したのだ。それは『二〇〇一年宇宙の旅』から『ゼロ・グラビティ』にいたる宇宙を舞台にした驚異的な特撮映画の系譜に当てはまるだけではない。高橋源一郎『銀河鉄道の彼方に』に登場する「宇宙でいちばん孤独な男」はケーンの遠い子孫のひとりなのである。
 ところで、東浩紀の新作――SFと呼ぶにはその叙述があまりに野心と忍耐を欠いているという意味での――ラノベである『クリュセの魚』(河出書房新社)でもまた、四〇〇年後の火星と地球で繰り広げられる政治的謀略にうんざりした「ぼく」が、たったひとりで宇宙の果てに旅立つ――そこで遭遇する「他者」との対話によって宇宙の真理とでもいうべき存在論的認識に覚醒することになるのだが、この話者の感慨が「宇宙でいちばん孤独な男」にあまりにも酷似していることに読者はまず驚くはずである。
 
ぼくは有史以来だれも経験したことのない孤独を体験していた。両腕で身体を抱きかかえ、しばらくのあいだその漆黒の奇跡を呆けたように眺め続けた。内惑星域から四兆八〇〇〇億キロ、地球と火星の距離など誤差に収まるほどの彼方、光ですら横断するのに半年の時間がかかる気の遠くなるような辺境で、ぼくはひとり、年代物の小型宇宙艇に乗って、あらゆる文明から切り離され、異星人の遺跡を見上げていた。
 
「ぼく」はいずれ火星を統治することになる「栖花」の父親なのだが、彼女の母親である「麻里沙」は没落した日本の天皇家の子孫なのだ! ちなみにこの未来世界では、日本が亡びて天皇家が宇宙の辺境に亡命しても、相変わらずコミケは東京で開催されているらしい(笑)。異星の客に与えられた過去と未来を改変する可能性を「ぼく」は最終的に拒否するのだが、その決断は「魂」が可能にする「やりなおさない力」(傍点原文)だとされる。それは世間で「運命」と呼び慣わされているが、しかし「観測選択体は、運命で結ばれているなどとは言わないのだ。なぜならば、彼らは、運命が無数の偶然の拒絶でしかないことを知っているからだ」。つまりこの現実はすべて主体的に選び取られた意志の結果だというのだが、もちろんこうした主体の絶対化はしばしば現状肯定に通底する。「子どもを産むというのは、偶然を必然に変えることだ」というのが親の意識だろうが、「子ども」としてはこんな馬鹿な親の下に生まれてしまった「必然」を何とかして「偶然」に転化したいと願っているのだ。「そしてこの悲運が自由であるように。」(ランボー)
むろんこの主題は東浩紀のデビュー作「ソルジェニーツィン試論――確率の手触り」に直接的に由来するのだろう。だがその帰結がこの現状肯定的で妄想的な――つまり絵にかいたようなオタク向けの――天皇制主義なのだとするなら、評者の関心はそれがせいぜい高橋源一郎の資本主義化されたアナキズムとほどよいバランスをとった凡庸な政治的構図に収まってしまう理由にしかない。それを考えるのはこの時評の範囲を超えているが、ただしこの両者の長編小説それ自体が――ケーンの大邸宅のように――「孤独」の額縁として機能している点は指摘しておこう。小説が「孤独」なのではない。「孤独」は小説を労働として体験しえない作家じしんの意識の影である。それは詩的決断主義のべつの相貌であり、「散文」の放棄の指標なのである。
 さて、今回の「秋の収穫祭」の目玉は、現在もっとも期待される若手作家である川上未映子綿矢りさの中篇ということになるのだろう。川上未映子「ミス・アイスサンドイッチ」(「新潮」一二月号)が巧妙なのは、とりあえず話者=主人公の「ぼく」を小学生に設定したことによって、舞台がかろうじて日本のどこかとわかるだけで、資本主義だの原発だのデモだのといった夾雑物を作品世界から排除したことにある。大貫妙子みたいな「詩的」な文体がそれを可能にしている。そのうえでその世界観の限界を自己言及的に呈示してみせるのだ。
 
ぼくの家は瓦のついた木造の、どこにでもあるふつうの茶色の古い家なのに、去年ママは玄関と玄関に入ってすぐの部屋をぼくらに相談もしないでいきなり洋風に改造した。
 とつぜんにばらばらになってとつぜんに完成したその新しい部分を眺めながらママは、まずはサロンがないと始まらないからねってうれしそうに言ってすごく満足そうな顔をしてみせたけど、でもぼくに言わせると――たぶんそう思うのはぼくだけじゃないだろうけど、それはなんだか色も形もちぐはぐすぎるというか、まるで遊園地とかにあるポテトとかおみやげとかを売ってる小さな店っていうかコーナーとかを無理矢理にくっつけたみたいな微妙っていうか完全にものすごく変な感じで、前のほうがなんでもなくて全然よかったのにとぼくは外から帰ってくるたびにそれをみなければならないのが恥ずかしくて、そしていつもちょっとだけ暗い気持ちになるのだった。
 
 この、おそらく和洋折衷の、戦前の文化住宅によくあったような洋風の応接室を作って改築した家の描写は、そのままこの小説の隠喩となっている。そして同時にそうした表象への違和感を「ぼく」が表明することで、この小説世界の「外部」を暗示することにもなる。「ぼく」は小説世界とその外部との「媒介」としての役割を果たす。ここが作品の入口であり出口なのだ。この矛盾それ自体が小説の主題となるのである。それを示すのが「ミス・アイスサンドイッチ」というタイトルの中立性である。それは「ぼく」のクラスメイトたちによって「「お化けみたいだよね」/「髪型もへんだし。でも目がいちばんやばい」/「鼻もへんだよ。あんなんなったらさあ、結婚もできないし、何もできないじゃんねえ。もう人生終わりって感じ。」」という陰口をたたかれるような、彼女の不毛な(「アイス」)未婚性をあらわすと同時に、「ミス・ユニバース」というような美女の敬称としても呈示されているのだ。もちろん「ぼく」は後者の意識をもって彼女に声をかけるのである。
 ただし「ぼく」の幻想の対象は、この小説でもやはり「労働」であることには注意しておこう。「ミス・アイスサンドイッチは、どこかへ向かって走っている。ドレスのお姫さまをその背中にのせて、ミス・アイスサンドイッチは走っているのだ。」お姫さまならぬ「犬」に比喩される、サンドイッチ屋の売り子であるミス・アイスサンドイッチという外部を「ぼく」が媒介する内部世界は、話のあわない「ママ」(−)と「ぼく」と秘密を共有する「おばあちゃん」(+)、凡庸なクラスメイトたち(−)と「ぼく」の秘密――ミス・アイスサンドイッチが好きだという――を言い当てた風変わりな友人「へガティー」(+)という単純でわかりやすい両極の価値観によって構成されたシステムである。「労働の不在」をある完結したシステムとして形式化することで、この作家は「労働の不在」という事態にある程度自覚的に対処しているといっていい。「ぼく」は結婚して店を辞めるという彼女に、彼女を描いた絵を捧げる。世界を代表して労働者を顕彰する「ぼく」、というのがその立ち位置である。この小説はミス・アイスサンドイッチに捧げられた「額縁」そのものなのだ。もちろん「ぼく」の所属する世界の内実は「無」である。ミス・アイスサンドイッチは「ぼく」のことを知らず、ミス・アイスサンドイッチのことを気にしているのは「ぼく」だけなのだ。それ以外の者たちにとって彼女は存在しないか、せいぜい嘲笑の対象にすぎない。つまりその世界は「ぼく」の主観的な意識にしか存在しない。だから存在しない――社会民主主義的な――正義を代表するというヒロイックな態度がこの作品の掲げる倫理である。ただしその倫理もまた労働そのものの顕現を回避しそこに自足するかぎりで、あくまで観念にとどまっている。
 川上未映子が世界をきわめて狭く限定することでかろうじて自己言及的に「額縁」としての小説を構築しえたのと対照的に、綿矢りさ「いなかの、すとーかー」(「群像」一一月号)はそこに「外部」を導入しようとして絶望的に破綻してしまった小説に思える。出来損ないのスティーヴン・キングのパロディ――「これだけそろえば『スタンド・バイ・ミー』の大人版のような懐かしくもワイルドな雰囲気が出てもいいはずだが、おれとすうすけだとどうしても間の抜けた気配しかしない」という記述もある――といった印象で、都市化された田舎の表象としては小山田浩子「穴」に遠く及ばない。にもかかわらず、今回の時評で最後に取り上げようと思ったのは、おそらくこの無残な失敗作だけが「額縁」に対する無意識の問いかけをかろうじて含んでいたように思えるからだ。労働が作品の外部であるなら、「額縁」とは労働を作品から締め出す境界線であり、作品と労働に二重に帰属する曖昧なボーダーでもある。売り出し中の若い陶芸家である「おれ」に対して、のちにかれのストーカーであったことが発覚する幼馴染の「果穂」は「どうして器を作る仕事以外にちゃらちゃらでしゃばって、目立とうと、有名になろうとばかりするの? お兄ちゃんの一番大切な仕事は陶芸でしょ」と「おれ」を難詰する。「おれ」の答えは「どこまでが仕事だって分けられないんだよ。果穂から見て不要なものも、おれの仕事に含まれてる」なのだが、もちろん作品という商品が作家じしんの肖像やら作家同士の社交といったものを不可避的に巻き込む行為であることは、もはや文学にとって自明なのだ。今さらそんなことを批判するのは、時代に取り残されてたごく一部の阿呆な文芸批評家だけである。だから「すとーかー」とはこの時評の書き手のような者どものアナロジーなのだ。
 
でも独りで何もかも作り上げてきたわけじゃないんだ。周りの人たちから、応援してくれる人から、木から水から火から、数えきれないほどの栄養を吸い上げて、一つの作品が生まれる。不公平なことをしてきた。当然のように自分のものだと線引きしていたものが、おれに分け与えてきた人たちに、理解できないほどの苦しみを与えていたんだ。
 
 このエクスキューズを真に受けるなら、「オレ」の芸術作品はストーカーも含むファンや地元民や地域環境から「搾取」して得た果実だということになる。しばしばジョン・ロックに帰せられる所有権という観念への批判がこの作品の主張したい倫理の眼目なのだ。しかし綿谷りさの叙述は、その主張を一種の遂行行為的な矛盾として裏切っているように思える。「『エイリアンVSプレデター』みたい」といわれる二人のストーカーの「対決」が直接描かれることがないのは、作家じしんがこの二人を描くことに何ひとつ本質的な関心を抱いているわけではないからだ。「本業じゃないことに熱心になるのはやめよう」という「おれ」の決意がいかにも軽薄で恥知らずに思えるのは、結局この男が「作品」についても「労働」についてもなにひとつまともに考えていないからである。かれがこの先この時の決意を裏切っていく場面を想像するのは容易だろう。もちろんそれは綿矢りさという作家じしんが自分の作品の抱え込んでしまった倫理にまともに向き合ってないことを意味している。「エンタテイメント」ではなく、ことばの正しい意味での「通俗」とはこうした小説を指していうべきである。
 
 
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Author:子午線編集部
子午線編集部です。同人誌『子午線 原理・形態・批評』を刊行します。

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